作成:2002年10月6日

千葉県東庄町・天保水滸伝ゆかりの地
2002年9月25日

「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟」浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、利根川と共に昔から語り伝えられてきた東庄が舞台の、笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語。

延命寺
笹川山と号する真言宗智山派の寺。笹川繁蔵の碑や剣客・平手造酒、勢力富五郎の墓などがある、天保水滸伝ゆかりの場所でもある。


笹川繁蔵の碑(延命寺内)
昭和15年地元の有志が、繁蔵を偲んで建造。昭和7年に銚子の町で発見された繁蔵の遺骨が葬られている。


平手造酒の墓(延命寺内)
紀州の浪人で、繁蔵の客人として大利根河原の血闘に加わり、義理と人情の最期をとげた。

天保水滸伝遺品館
笹川繁蔵愛用のキセルや、平手造酒愛用の徳利など、当時の侠客の風俗を語る遺品が展示されている。

「天保水滸伝」は、江戸時代も終わりに、利根川下流水域で起こった事件を基にし、事件の何年後かにこれを取材した江戸の講釈師室井錦凌によって誕生したといわれている。フィクションとの説もある。

 

笹川繁蔵は、文化7年香取郡東庄町に生まれ、生家は代々醤油と酢の醸造をしてきた物持ちであった。繁蔵は幼少から漢字や数学、剣などを学び、人間的にも優れた人物だったと言われる。
繁蔵は相撲取りになるために江戸へ出たが、一年ほどで村へ帰る。その後賭場通いを始め、ほどなくして笹川一家を張る若親分になる。
 一方、飯岡助五郎は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、博徒の親分として下総一帯に勢力を誇っていた。繁蔵が勢力を増すに従い、助五郎も黙ってはいられなくなった。
天保15年、飯岡側が最初の斬り込みを行った。これが大利根河原の血闘である。この決闘に平手造酒が義理と人情で繁蔵に助太刀したと伝えられる。この争いは笹川方の圧勝に終わった。
しかし、当時助五郎は博徒でありながら十手持ちでもあり「御用」の二文字を前に、繁蔵は子分に金品を分け与え、自身は笹川を離れた。
 初秋の大利根を後に旅立ってから3年後の弘化4年春、繁蔵は飄然と笹川へ帰ってきた。いっそうの風格を身につけて戻ってきた繁蔵のもとへ、ぞくぞくと昔の子分たちが集まってきて以前にも増して勢力を持った。
しかし、飯岡助五郎は密偵を笹川に放ち、繁蔵謀殺の機会をうかがっていた。そして弘化4年7月、賭場帰りの繁蔵は、ビヤク橋で飯岡側の闇討ちにあい殺害された。笹川繁蔵、38歳の男盛りだった。

諏訪神社には侠客・笹川繁蔵が建てた、相撲の元祖・野見宿禰(のみのすくね)の碑があり、秋季例祭には、碑の前で町内の力自慢やチビッ子を集めての相撲大会が開催される。
また諏訪神社の隣りに天保水滸伝遺品館があり、延命寺もすぐそばにある。

●交通:JR笹川駅から徒歩5分